「隣の芝生は青いけど、自分の芝生も意外と青い。」

自由気ままにのんびりと。好きなことを綴ります。

#4 甲子園での違和感

どうも。青芝です。

昨晩から父の実家である鹿児島に帰省しております。

夕方から早々にお酒を祖父から勧められた結果、

酔い潰れ、現在早朝4時、

ブログの更新をしている所存であります。

 

本日は甲子園をみていて、違和感を感じたことを綴っていこうと思います。

私はプロ野球より、甲子園が好きです。

その理由としましては、プロ野球と比べると

高校球児の方が、選手たちの姿に感動することがあるからです。

1プレー、1プレーに一喜一憂し、

全てに一生懸命で、たまには泥くさく、

プロ野球とはまた違って、

観ていて自然と応援したいという気持ちになります。

そんな高校野球ですが、今日みていて、

違和感を感じました。

 

なぜ、高校球児は「坊主」なのか。

 

調べたところ、高野連自体は

球児たちに坊主の強制はしておらず、

学校側が球児は坊主であるべきだということで、

坊主を採用しているみたいです。

何故、坊主なのかということが

次の疑問に挙がるとおもうのですが、

諸説あるみたいです。

最も有力な理由は、「伝統」です。

日本の文明開化以降、軍国化に伴って、

国の一体化を図り、男児は皆坊主にするという風潮が広まりました。

その統率、管理といった部分が、

戦後も野球部だけに残っているようです。

90年代後半までは、減少していた坊主強制だったが、98年以降、増加しており、

98年には31%だったが、

2013年には79%にまで増加しているようです。

 

たしかに、私自身、甲子園に出場している

高校球児がもしも坊主ではなかったら、

それはそれで違和感を感じることでしょう。

しかし、果たしてその違和感は、

違和感として感じてしまっていいのでしょうか。

 

大人たちの高校球児はこうあるべき、

一種の決めつけ、思い込みにより

球児たちの髪型の自由を奪い、

大人たちが勝手に理想とする

高校球児を創り上げてしまっていると思います。

たしかに古くからの伝統を重んじるのは大切だと思いますが、

学生球児が坊主である必要性は本当にあるのでしょうか。

 

私自身の意見なのですが、よくよく考えてみると、

非効率的かつ非人道的、

大人たちエゴによる強制を

疑問に思わざる他なりません。

 

こうした古い考えを払拭していくことが、

常識を疑う目を養うことに繋がると私は思います。